「Call」



「連経済特別区」―――通称「ロストグラウンド」の独立自治は意外な形で保証されることとなった。

ロストグラウンドの大地を守った二人のネイティブアルター。
本土の武力行使を一蹴し、星をも震撼させる戦いを繰り広げることのできる能力を持つ者たち。
その力に危機感を感じた諸外国は、ロストグラウンドの復興に対する援助を決定し、彼らの自治を認めた。アルター能力者に対し通常戦力では歯が立たないことが分かり切っているだけに、自治を認めることで友好関係を結び、逆にアルター能力者の行動を制限したのである。
しかし、諸外国のそうした動きに混乱したのは本土側だった。
22年前、ロストグラウンドという大地が誕生したとき自分たちがとった行動と全く同じものをなぞらえただけというその事実は本土に住む人々を恐怖の渦に陥れた。
問題を解決するのではなく、被害が及ばないように範囲を限定して全てを封鎖する。そこに自分たちが含まれていなければそれでもいいのだろうが、その範囲に含まれている本土としては静観視できる問題ではなかった。
曲がりなりにもロストグラウンドの自治を認めた諸外国にネイティブアルターが手を出すことはまずないだろう。それを考えれば、武力行使を最初にしたのは本土側だということを差し引いても当面の敵は本土のみであり、何より、本土の戦力ではたった二人のネイティブアルターにも敵わないのは立証済みであった。

―――進退窮まった本土側はロストグラウンドとの折衝を開始。
ロスグラウンドの誕生から20年以上もの歳月をかけ、ここに、本土、諸外国から自治を認められた真の意味での特別区が誕生した。

全てを破壊する拳を持つ『金の悪魔』。
全てを切り裂く剣を持つ『銀の死神』。

全ての切っ掛けであると同時に強大な力を持った二人のネイティブアルターを、やがて人々は畏怖と尊敬を込めてそう呼んだ。





 「う……」
鈍い頭の痛みとこみ上げる吐き気に苛まれながら、劉鳳は沈んでいた意識を浮上させる。薄く、霞のかかったような視界の中に映る見慣れない壁に身じろぐと、その動きに倣うようにチャリ、と金属音が鳴った。
 「…な、んだ…?」
意思の力で気分の悪さを押さえつけ、冷たい床に横たわっていた身体を起こせば、先程よりもっと大きな金属音が鳴る。
床についた両手を縛める枷とそれを繋ぐ鎖。
そして、違和感を感じていた足元にも枷ははめられており、そこから伸びる鎖の一端は壁へと繋がれていた。
 「…まるで猛獣だな……」
壁に背を預ける格好で座り直した劉鳳は自らの姿をそう称しながら、鈍る意識と身体を抱えたままで現在の状況を把握しようとする。
正確な時間は分からないが、自分があの部屋からここに放り込まれてさほど時間は経っていないはずだ。それを考えると、次の実験が―――あの連中に言わせるとなのだが―――始まるまでにはまだ間があるだろう。

向こう側の力―――しいてはアルター能力の研究をしていると声高に説明してくれた科学者の姿を思い出す。

予想だが、彼らは本土側からスケープゴートにされたのだろう。
本土がアルター能力者を研究、精製していたことは万人に知られるところとなった。いかにアルター能力者が異能であり、嫌われ者だとしても、人体実験という禁忌を犯していた本土側に対する非難は大きかった。そのために、本土は研究者たちを切り捨てたのだろう。
 「……こうなることも本土の思惑どうりだったのかは分からないが…」
今までの研究全てが否定され、あまつさえ研究を推奨していたはずの本土が切り捨てにかかったのだ。それならばいっそ、と思う者がでてきてもおかしくない。
歯止めのない研究は狂気にも似た勢いとなり、手に入れることのできなくなったアルター能力者はロストグラウンドで手に入れればいいと考えた。
 「そして、その現場にアルター能力の乱れを感じた俺が現れた、か。」
他の能力者の盾となり、本土側の能力者と対峙した。その中に、一時的とはいえ、他者のアルター能力を封じ込められる能力者がいたのは予想外だった。精製された能力者は、言われるまま命と引き替えに自分のアルター能力をわずかの間だが封じ込めることに成功し―――結局、この体たらくだ。

 「…………」
状況を把握するために捕まるまでの経緯を簡単に思い返していた劉鳳は、そこで一つ疲れたように溜息を吐いた。
分かっていたことだが、他者の追随を許さないほどの強大な力は、逆を言えば破られたときの反動が大きい。おまけに実験段階だと耳にしていたアルター能力を阻害するクスリを投与された身体は酷く怠く、頼みの綱であるアルター能力も限りなく減退している。
体調が万全ならば絶影を構成できるだろうが、今の状態ではそれもできないだろう。
鎖を断ち切ることはできるかも知れない。扉を破壊することも可能かも知れない。だが、どう考えてもそこまでで、それ以上のことを今の状態で望むことはできない。そうなれば、逃げ出したとしても直ぐに捕まってしまうだろう。
このままの状態では八方塞がりのままだ。
ともかく、今は身体を休めて体力を少しでも回復させることが先決、と意識を切り替えた劉鳳は、鎖に繋がれた足を引き寄せてその立てた膝に肩頬を押しつけると目を閉じた。
疲れ切っていた身体と意識は逆らうことなく眠りの淵に沈んでいき、その眠りの中で劉鳳は深く深く心の奥底に沈めていた男の言葉を思い出すのだった。
迷うことなく手を差し伸べた男の言葉を―――

 『オレを呼べよ。』

嬉しくて、痛くて、苦しかった言葉を。





譲れない道があった。
進むと決めた道があった。
自らの信念のために選んだ道と自らを貫くために決めた道。
その二つは、同じように見えて決して交わることのないものだった。

心の奥底に眠る気持ちに気づきさえしなければ。



苛立つ心を抑えきれず、手近にあった岩に拳を叩きつける。
鈍い音を立てて穴を空ける岩に目もくれず、カズマは機械的に足を進めた。

劉鳳が姿を消してから一週間。
何も言わず、何も告げずに劉鳳はいなくなった。

曲がりなりにも手に入れた平穏。大地を流離い、戦いの日々を過ごす必要のなくなった自分たちだったが、かといって残してきた人たちの元へ戻れるはずもなかった。
悪魔と。
死神と。
そう呼ばれるほどの異能者が常人の側にいて問題が起こらないはずはないし、何より、カズマは自分が劉鳳に対して抱きつつある感情が何なのか見極めたかった。
 『なあ、一緒に暮らさねぇ?』
 『……は???』
…劉鳳を探し出し、真っ先に告げた言葉に目を丸くした彼の幼く見える表情を今でも覚えている。
戸惑っていた劉鳳を口説き落とし、取り敢えずではあったが同居を承諾させた。かといって束縛している訳じゃないし、取り付けた同居の約束だって一方的なものだ。
けれど、育ちのいい劉鳳は約束を破るということを知らないのか、どこかに出かけたとしてもいつだって二人で住む家に帰ってきたし、何も告げずに姿を消すなどと言うことは今までになかった。
 『……劉鳳?』
それなのに、私用を片付けて家に戻った自分を待っていたのは、誰もいない家と冷たい沈黙で。

 「劉鳳…。アンタ、どこに行っちまったんだよ……」
側にいないことなど今までだって何度もあった。
離れていたことだって幾度もあった。
それなのに、どうして劉鳳の不在を受け入れられない?
 「分かんねぇ。…分かんねぇけど……」
今、探すのを止めてしまったら、もう二度と彼に会えない気がする。
死と言う名の手が劉鳳を覆い隠そうとしているような、そんなざわりとした手触りが常に心臓を撫でているようで。
 (それが、怖えぇんだ)
カズマはぎゅっと目を閉じて頭を強く振ると、こびりついて離れないイヤな想像を振り払う。
離れない恐怖に立ち止まる時間はない。
大丈夫だと。
劉鳳ならば平気だと自分自身に言い聞かせながら、カズマは歩みを進める。
 「……オレの名前を呼べよ。そうすればアンタがどこにいたって行ってやるから。」

 (……マ)

答えるように。
けれど、風にかき消えるほど微かな声に、もっと強くとカズマは胸の内で叫ぶのだった。





その手を取るのが怖かった。
好意とともに差し伸べられているのが分かったから。
拒絶されることなく、簡単に手にできることが分かったから。
―――だから、怖かった。

 『オレを呼べよ。』

優しくしてくれた人は、愛してくれた人はいつだって自分を残して逝ってしまうから。

 『アンタの声ならどこにいたって、どんなに離れたって聞こえるから。』

…手を取ってはいけない。

それが大事な人ならばなおさら。
寂しさと孤独に耐えかねて手を取ってしまったら。
それで命を失わせてしまったとしたら、自分で自分を許せなくなるだろう。
だから、その手を取ることはできない。
寂しくても、苦しくても、怖くても、一人で…立つことが難しくても。
虚勢を張って、意地を張って、平気な振りをして。
気づかないフリ、見ないフリをして生きていくしか。

 『すぐに行ってやる。…だから、呼べよ。』



 「……ッつ!!」
ビクッ、と劉鳳の身体が反応して、混濁していた意識が一瞬だけ冴え渡る。
身体を走るしびれた刺激。
高圧の電流を流されたように身体中の筋肉が収縮し、心臓が、肺がすくみ上がる。まるで、直接心臓を掴まれるような刺激に目の前が一瞬暗くなった。
…痛みは、とうに感じない。
ただ、苦しさだけが身体を支配していく。
ぎゅっ、と閉じた瞼の裏に起こるハレーション。身体中を這い回る指先に感じる嫌悪。投与されるクスリに混濁していく意識。
―――削り取られていく自分という存在。

捕まった当初は意識を失う度に実験が中断されたが、数日前に起こした脱走騒ぎでその時間も与えられなくなった。今では、意識を失いかける度に身体に電流が流され、無理矢理現実に繋ぎ止められている。
昼夜を問わず、間断なく続くようになった行為に自分の身体がどこまで保つのだろう?

 (……マ)

ぼんやりとした視界に映る影は、自分の身体を調べるために群がってくる狂信者たち。
アルター能力があるというだけで、身体組成に関しては通常の人間と変わりないというのに、それだけではこの連中は満足しないようだ。
千切れていく意識が拾ったいくつかの言葉は、自分の命がこのままでは絶望的であることを知らせるものだっだけれど、指一本動かせない今の状態では逃げ出すことなど叶わない。
腕を這う、とろりとした流れ。
頭の隅で感じる危機は鈍くて、現実味を帯びない。
全てが遠くなっていく中で、それでも残ったのは鮮烈な印象を残す金の瞳だった。

 (……ズマ)

殆ど無意識のうちに劉鳳の唇が名前を刻む。
…帰りたい。
あの家に。あの場所に。―――カズマの隣に。
気づかないフリをしているだけで、本当は寂しかった。
一人は辛かった。
一人は苦しかった。

 『オレを呼べよ。』

削り取られていく意識が再生するのはたった一人の声。
 (呼び、・たかった……)
ずっと、ずっと呼びたかった。
手を取りたかった。
その言葉が、本当は嬉しかったのだと伝えたかった。
 (…カズ、マ)
理性も。躊躇も。劉鳳の中に残っていた全てが剥ぎ落とされていく。そんな中で最後に残ったのは、貪欲なまでの純粋な想い。

名前を。
ずっと、ずっと、ずっと。
呼びたかった。

…呼びたかった。
全てを畏れて、口に出すことをしなかった自分の声はもう届かないかも知れないけれど。
それでも、呼びたい。
例え来てくれなくても、そうすれば、最後に見ることができるのはお前のような、…そんな、気が、するから。

 「…、ズマッ。」
もう既に焦点の合っていない瞳が揺れる。既に自我が無いものと決めてかかっていた科学者たちの前で劉鳳は唇を震わせると、あらん限りの力でたった一人の名前を呼ぶのだった。

 「カズマアァァッッ…―――ッ!!!!!」



心を掴む叫びが空気を震わせて消えていく。
拡散していく悲痛な声に、一瞬、全ての時が止まった。
 「お、脅かせおって…ッ」
白衣に血の染みを付けた一人がひくひくと引きつる貌を晒しながらひとりごちた。
 「まだそんな力が残っていたとはな。さすが、『銀の死神』だ。」
そう言いながら、劉鳳の顔を覗き込めば、意思の光を宿していた瞳がゆるゆると閉じられていく。
 「ふむ、どうやらこれで最後のようじゃ。…そうじゃな、まだ意識のある内に本格的な解剖をしてしまうか?」
年老いた科学者の言葉に周囲にいた者達が賛同する。
 「それは良い考えだ。」
 「死体では得られない反応もありますからね。」
口々に上がる言葉に科学者が鷹揚に頷く。そして、側に置いてあったメスを手に持つと、劉鳳の胸へとその切っ先を当てた。
 「これで、『銀の死神』も最後じゃ!!」
グッ、と手に力がこもり、ぷつ…っとした僅かな抵抗とともにメスが劉鳳の身体に入り込もうとした瞬間、前触れもなく頭上から降ってきた瓦礫と爆風に、科学者たちは吹き飛ばされた。



 「…―――劉鳳ッッッ!!!」
幻ではない声が耳に届く。
本当に来てくれた。言葉どおりに来てくれた。ならば、自分の声はまだカズマに届いていたのだ。
 (……嬉し、い)
劉鳳は口元に幸せそうな笑みを浮かべながら、全身を支配する疲労と抗いがたい睡魔に逆らうことなくその瞼を閉じていく。
それは、二度と目覚めないかも知れない眠りだったけれど。
 (カズマ)
…けれど、やっと素直になれた心はとても穏やかだった。



穏やかな。
幸せそうな笑みを口元へと浮かべた劉鳳の瞼が、カズマの目の前でゆっくりと閉じていく。
はっきりとした強さで呼ばれた名は、劉鳳の居場所を間違えることなく教えてくれた。直ぐさまアルターを発動させて、文字通り宙を飛んで来てみれば、そこには信じられない―――信じたくない光景が広がっていた。
手術台のような場所に横たわった四肢は戒められ、身体の各所には電極のようなものが埋め込まれている。
大小に切り裂かれた皮膚からは止めどなく血が流れており、劉鳳の白を基調とした制服を赤黒く染め上げていた。
青白い顔。
乾いてひび割れた唇。
それらは全て、否応もなしにカズマへと劉鳳の身に起こったことを克明に伝えてくる。
 「劉、…鳳…―――ッ!」
アルターで覆われた無骨な手で劉鳳の両頬をくるむ。手がどうしようもなく震えていたのは誤魔化せなかった。半ば以上閉じかけていた瞳はカズマの姿を映すことはなかったけれど、それでも劉鳳には側に居るのが誰かと言うことは分かったらしい。浮かんでいた笑みが深くなり、震える唇は小さく名を刻んだ。
カ・ズ・マ、…と。
けれどそれが精一杯だったのか。
それを最後に、劉鳳はカズマの前でその瞳を静かに閉じた。

 「……あ、あ…あ・あぁアァぁあぁあアアぁぁぁぁっっッ!!!!!」

カズマの口から絶叫が迸る。
劉鳳の四肢を縛めていた金属製のベルトを荒々しく引きちぎり、血に染まった身体を掻き抱く。痩せた、肢体。血と薬物の臭いがする肌。疲労をうかがわせる目元にそっと唇を寄せると、僅かに滲んでいた涙を舐め取った。
 「…―――テメェら…」
腹の底が熱い。ドロドロとしたマグマがある。傷つけられ、壊されかけた劉鳳の姿にカズマの怒りは冷酷さに取って代わられた。
自分が突き崩した瓦礫の下敷きになった連中を容赦なく踏みにじり、生き残っている相手を怒りと憎悪の綯い交ぜになった瞳で睥睨する。
 「き、貴様は…ッ!」
 「…『金の悪魔』……」
ロストグラウンドに派遣された本土の軍を壊滅させた片割れ。
全てを破壊する拳を持った悪魔。
その戦いぶりから付けられた称号だが、今のカズマはまさにその呼び名に相応しいほど怒り狂っていた。

…劉鳳が好きだ。

必死に一人で立ち続ける男を支えたかった。
その思いは、守らなければならないほど弱くない劉鳳に対しての侮辱なのかも知れないが、それでも自分は劉鳳を降りかかる全てから守りたかった。
 『オレを呼べよ。』
身を覆う虚勢を剥がしたくて。怯える必要はないのだと言いたくて。
 (違う)
全部逆だ。
…自分が呼んで欲しかったんだ。
頼って欲しかったんだ。望んで欲しかったんだ。掴んで欲しかったんだ。
 (好きだから)
そう、はっきりと自覚したのに。
―――なのに、こんなのは、酷すぎる。

 「……許さねぇ…、テメェら、絶対に許さねぇえぇぇっ!!」
カズマの怒気とそれに反応したアルター能力に大気が震える。蟻の子を散らしたように逃げ惑う相手に向かって、カズマは心を占める怒りと冷たさのままに一歩を踏み出し、そして―――

―――その日、金色の悪魔があげた咆哮に世界が震えた。





何かを望むことは、自分にとって罪だった。
望むということは、その相手を死に至らしめてしまうということだから。

優しかった母も。
尊敬していた父も。
唯一の友人も。
自分を慕ってくれた彼女も。

みな、死んでしまった。

巻き添えをくって死に、柵を断ち切るために命を絶ち、自分を庇って命を落とし、救うために命を捧げた。
…どれだけ。
どれだけの命を食い物にすれば気が済むのだろう?
どれだけの命を犠牲にして生きているのだろう?

自分の弱さが憎かった。
脆弱な心に怒りを感じていた。
だから、ずっと、ずっと、ずっと縛めていた。
名前を呼ばない。
助けを呼ばない。
もう、差し出された手を取ることはしない。

それなのに。
…自分は戒めを破って呼んでしまった。

ならば、罰が降りかかる前に。
罪が届く前に。
自分がするべきことは―――。



カタン、と。
耳に届いた小さな物音に、カズマはいつの間にか眠りの淵にあった意識を取り戻す。
 「劉鳳……?」
この家にいるのは、自分を除けば彼一人。

あの日。
怒りの衝動のままに拳を奮い、ふと気が付けば、劉鳳が囚われていた建物の周囲は焦土と化していた。
そのまま彼を家へと連れ帰り、取り敢えず医者に見せたが、うてる手は殆ど無かった。逆に、命があることが奇跡だと言われたほどだ。
目の前でゆっくりと瞳を閉じて以来、劉鳳が目覚めることはなくて。
このまま、一生目覚めないのではないかとも思ってしまう。
だから、半信半疑のまま、劉鳳を寝かせている部屋へと足を踏み入れたカズマは、夜風に揺れる窓ともぬけの殻のベッドに目を見開いた。
 「劉鳳ッ!」
気が付いたのだろうか?
それとも、誰かがまた彼を連れていってしまったのだろうか?
開いたままの窓から外に飛び出す。いつの間にか陽の落ちてしまった大地は暗かったけれど、そんなことに構ってなどいられない。
 「…劉鳳ッ!!」
目覚めたばかりで無理をしてしまえば元も子もない。
自分の身体には頓着しない劉鳳に内心で舌打ちすると、カズマは夜の大地を走り抜けるのだった。





好きだから。
大好きだから。
だから、一緒にいては駄目だ。

『銀の死神』の二つ名は伊達じゃない。
自分に関わった人は、自分に好意を持った人はみんな死んでいく。周囲にこんなにも死が溢れているのに、自分にはそれは訪れない。
 (疲れた)
看取ることも、嘆くことも。
 (…カズマ)
この道を選ぶ自分を彼は怒るだろう。詰るだろう。けれど、カズマは自分とは違う。こんな風に潰れたりしないはずだ。
 (身勝手で済まない)
助けてくれた命を無駄にするなんて。
けれど、もう駄目だ。
もしも。
もしも、名を呼んでしまったことで、手を取ってしまったことでカズマを死なせたりしてしまったら―――。
自分は、死ぬより先に狂ってしまうだろう。
全てを切り裂き、破壊し、そして、最後には自分の頭を切り落とすだろう。
だが、この大地にはまだ守りたいものがある。
愛しいものがある。
…ならば、こうするより術はないのだ。
 (……ああ)
本当なら、もっと早くこうすれば良かったのに。行くべきところがなくなったときにこうすれば良かったのに。
それができなかったのは。
 (少しでも一緒にいたかったから)
でも、もう。

置いて行かれるのは…嫌だ。

周囲を包む濃い闇よりも濃い黒を内包する場所に一歩を踏み出す。吹き上げてくる風が身に纏っているシャツをなびかせ、痩せた肢体を揺らした。
あと一歩。もう一歩を踏み出せば、一瞬の浮遊感の後に静寂が広がるだろう。置いて行かれることのない世界へと手が届く。
そのまま、躊躇うことなくふらり、と一歩を踏み出そうとした劉鳳だったが、その背を強く叩いた声にその足を止めた。
 「劉鳳ッ!!!」
 「…………」
肩越しに振り返れば、息を切らしたカズマの姿。
言ったことはないけれど、今も言うつもりもないけれど。自分が心の奥から切望した相手の姿。
 「アンタッ、何やってんだよ!?」
吹き上げる強い風に揺れる身体。一歩間違えば、あのまま崖下に転落してしまうだろう。けれど、そんな危険をも感じていないように、劉鳳は静かにカズマの顔を見つめてくる。
 「危ねぇって。…こっち来いよ。」
一歩ずつ距離を縮めながら手を伸ばす。そうすれば、劉鳳の柳眉がしかめられ、ゆるゆると首が振られた。
 「……劉鳳?」

 「ありがとう。」

突然の礼の言葉にカズマの足が止まる。
劉鳳の口元へ浮かぶ笑みは穏やかで。何かを悟りきっているような。そんな静謐ささえあった。
 「アンタ…、何いって……」

 「お前と居られて、…幸せだった。」

ふわり、と。
子供のような無垢な笑みが劉鳳の顔に広がる。
 「劉、…―――ッ!!」
そして、カズマの姿を見つめたままで、劉鳳は足を滑らせた。
―――深く濃い闇へと。





 「ッたく! このバカがッ!!」
咄嗟にアルターを発動させて、宙を舞うように落ちていく劉鳳を抱きしめた。未だにクスリの影響下にある劉鳳のアルター能力は欠片も発動せず、一般人と変わりない状態でこんな崖から身を踊らせればどうなるか分かるだろうに。
 「……アンタ…」
劉鳳の頬を撫でる。
生きている温もりを伝えてくる肌。
…生きている。
確かに生きているのに、劉鳳はどうして死を選ぶのだろう。
一緒にいられて幸せだと、そう告げるくせに。
 「何で、こうなっちまうんだろうな。」
意識を失ったままの劉鳳を抱き上げると、カズマは軽く跳躍する。その一飛びで切り立った崖を越えたカズマは、静かで寂しい風が吹く中を家路へと着くのだった。



劉鳳の抱えている闇。
それが深くてどうしようもないことは知っていた。知っていたけれど、ここまでとは思っていなかった。
 「…ん……」
ベッドの縁に腰掛け、劉鳳の顔を覗き込んでいたカズマの前で、劉鳳の顔に影を落とす長い睫毛が震え、その下からは血石の瞳がゆっくりと現れる。
 「……劉鳳?」
 「生きて…、いるのか……」
確認と言うには弱々しい声。カズマは、劉鳳の頬に手を滑らせながら静かに答えた。
 「ああ、アンタは生きてる。」
 「どうして……」
 「生きてて欲しかったからに決まってんだろ。」
その台詞に瞳を揺らし、震える唇が言葉を紡ごうとするのをカズマは口を開いて遮る。
これ以上、劉鳳に自分で自分を傷つけることをして欲しくなかった。
 「―――なあ、劉鳳。…アンタは、死んじまった連中が自分のせいで死んだって思ってんだろ?」
 「…―――ッつ!!」
ビクッ、と震える身体を抱きしめる。血の気の引いた身体は酷く冷たかったが構わなかった。それどころか、自分の温もりで劉鳳を暖められればいいとさえ、思った。
 「それはちょっと違うぜ。あいつらはアンタの助けになりたかっただけなんだ。」
 「…だがッ、…みな死んで……しまっ、た。」
 「自分よりアンタが大事だったんだよ。」
 「そんな! なら、残された俺はどうすればいいと言うんだ…ッ!」
頬を滑るようにこぼれ落ちる涙がキレイだと思った。カズマは、劉鳳の目尻から伝う涙をぺろり、と舌で舐めとると言葉を続けた。
 「オレも、アンタがテメェの命より大事だ。」
今まで以上に震えて、腕の中で藻掻く身体をきつく抱きしめることで押さえる。大事なのは。劉鳳に心底から伝えたいのはここからだったから。
 「けど、アンタを残して死んじまって。…アンタが他のヤツのモンになるのはぜってぇイヤだ。」
 「…………」
 「だから、さ。もしも、オレが死んじまうような目にあったら…すぐになんて死んでやらねぇから。だから、アンタを…―――殺して死んでいいか?」
言い淀みながらも告げられた言葉に、劉鳳の血石の瞳が見開かれる。
 「アンタを殺してからオレも死ぬ。…生きて幸せになれなんてお為ごかしは言わねぇ。」
 「カズ…マ。」
抱きしめていた腕を解いて、その両手を劉鳳の頬に添える。血石の瞳を覗き込むようにしながらカズマは笑った。
 「…オレは、アンタを殺すぜ?」
 「それで構わないッ!! 構わないから一緒に連れて行ってくれッ。…一人はもう嫌だッ!」
叫ぶように告げる劉鳳へと、そっと唇を近づける。二人の影が一つになる瞬間、小さく呟かれた劉鳳の言葉にカズマも小さく首肯することで答えるのだった。

好きだ、と。
一言だけ告げられた言葉に―――…





深く合わされた唇。口内に差し込まれた舌に蹂躙される劉鳳の身体から強張りが抜けていく。縋るように掴んでいたカズマの服を握りしめる手からも力が抜け、ぱたり、とその手がシーツへと落ちた。
 「…は……ぁ。」
ぐったりとシーツに沈み込んだ劉鳳を口づけから解放したカズマは、潤んで柔らかくなった血石の瞳を覗き込みながら口を開いた。
 「…いいか?」
いつも以上に細い肢体。病的なまでの白さ。考えてみれば、劉鳳は長い昏睡から目覚めたばかりだ。彼が嫌だというのなら、カズマは自分を止めるつもりだった。
 「カズマが…、俺でいいなら。」
錆びた血の色をしているカズマの髪に手を伸ばして触れる。
…こんな風に。
こんな風に触れることなどないと思っていた。温もりを。重みを。カズマを感じることなどできないと思っていた。
自分の体調が万全でないことには気づいていた。けれど、どうしても今カズマを感じたかった。

 『…オレは、アンタを殺すぜ?』

その言葉が嘘でない証拠に。



身体に残った傷痕を舐め上げる。薄くなっている皮膚はそれだけで感じやすいのか、劉鳳はびくり、と身体を揺らしながら熱い息を吐いた。
 「…痕、残っちまうかもな……」
縦横に走る傷は引きつれているものもあり、それはいくらキレイに裂かれている傷とはいっても痕を残してしまうだろう。
…それが、悲しくて悔しい。
 「な、に……?」
 「…いや、何でもねぇよ。」
けれど、それを劉鳳に告げるのは間違っていることは分かっているから。カズマは口元に浮かべた笑みでそれを誤魔化すと劉鳳の身体へと唇を落とす。
 「は…ァ、ンう…ッ。」
身体をなぞる指に。
辿るように落とされる唇に。
 「劉鳳……」
耳に注ぎ込まれる低く掠れた呟きに、自分の全てが反応する。
弱い自分を誤魔化し、ただ、復讐のみを見据えてきた生き方をしてきた劉鳳にとって、こうして人と触れあうことは全て初めての経験だった。容姿も財力もあった劉鳳に向けられる視線は多かったが、聡い彼は自分に向けられる視線の意味を取り違えたりはしなかったから。
 「劉鳳……」
 「ん、も…やあ……」
既に暴かれている上半身とは裏腹に、下肢は未だズボンを履いたままだった。
溜まった熱に、誘うように腰が揺れ、潤んだ瞳がカズマを見上げる。
その目にカズマは笑いかけると、そろそろと下ろしていた手を敏感な部分へと押しつけた。
 「気持ち、イイか…?」
 「あ、あっ……う、んッ、あふっ。」
急にあたえられた半身への刺激に、劉鳳の口からは悲鳴にも似た嬌声がこぼれ落ちる。
 「劉鳳。」
 「や、あ…もう……」
半身を痛いほど握り込まれた劉鳳の瞳から、止めきれなくなった涙が溢れる。
そんな劉鳳の顔を満足げに見つめていたカズマは、ようやく劉鳳のズボンに手をかけ、ジッパーを引き下ろした。
 「……ッ、う、あッ。」
もう一度布越しに撫で上げてから、カズマは劉鳳の下肢を覆っていたものを下着ごとと取り払う。
 「…………」
羞恥から頬を染め、不躾な視線から逃れようと身動くのを許さず、カズマは震える劉鳳に手を添え、ゆっくりと刺激を与える。
 「ひぁッ、あ……やぁ、っふ。」
正直に自分の感じたままを表す場所は、カズマの与える刺激に敏感に反応する。自慰程度の行為しか知らないそこはカズマの手で簡単に追い上げられた。
 「な、劉鳳。イキたい?」
 「あ……」
意地悪く耳元で囁かれる声に、劉鳳は閉じていた目をぼんやりと開けた。
欲に溺れ、艶めいた血石の瞳と、彼の姿態に熱を帯びた琥珀の瞳が重なる。暫し、無言で見つめ合った後、劉鳳は婉然とカズマに笑いかけた。
 「イかせて……」
その、貌。
普段の禁欲的なまでの表情とは違い、なんと妖艶なことか。
カズマは、劉鳳の言葉のまま、自身に絡めていた手を痛いくらいに握り、そのままゆっくりと刺激を与えた。
 「あッ、あああ、…うあッッッ。」
切れ切れの、悲鳴にも似た喘ぎ。
耐えきれないものに痙攣したように引きつっていた身体がぶるり、と震え、劉鳳はカズマの手の中に張りつめていた欲望を吐き出した。
 「…ッ、は……あ…っ。」
ゆっくりと弛緩していく身体を後目に、カズマは劉鳳自身の最奥に彼が零したもので濡れた指を差し入れる。
 「痛ッ、あっ……、くあ…ッ」
びくっ、と震えた身体が力をなくしベットへと沈み込む。いくら知識としては知っているとはいえ、受け入れる機能を持たない場所に異物を受け入れるのは、どうしても不快感を覚えた。
荒い息と揺れる眼差し。顰められた柳眉に悲鳴を食いしばる唇。それでも一心にカズマを受け入れようとしている劉鳳の姿に、カズマの方も身体の中に感じる異物感に彼が慣れるまで、ゆっくりと丁寧に内を解していった。



 「あ、あう…っ、んあッ!!」
掠れた高い声。カズマの背中に回された手が耐えるように爪を立て、肌にいくつもの傷を作る。
 「ッつ……!」
一瞬の痛みの後に熱く感じる傷にカズマは顔を顰めるが、劉鳳に負担をかけていることをちゃんと自覚しているカズマは彼の身体を解すことを優先させる。
内壁を擦り上げる、自分以外の熱。
一瞬の吐き気を過ぎれば、まるで酒にでも酔ったような酩酊感が劉鳳を襲ってくる。
 「劉鳳。…劉鳳、平気か?」
 「くうっ、あ…、あ・カズマ…。も、やァ・あつ、い…」
身体が熱くてしょうがない。誰も受け入れたことのない奥底で感じる鼓動もそれに拍車をかけていて。このままでいれば熱さで狂ってしまいそうだ。
 「…動くぜ。」
ゆっくりと確かめるような律動を受け止めて、女のように喘ぐ。のし掛かってくる身体に抱きついて、乾いた唇を癒す口づけを強請った。
悦楽に満たされた中、劉鳳はカズマに揺さぶられるままに動き、喘いだ。
止めどなく上がる嬌声。痛みと悦楽の混じる刺激。同じ男のものを受け入れることのできる身体に感じていた違和感はなくなり、貪欲なまでにカズマを欲する自分がいた。
 「―――…ッッッ!!!」
内壁を抉るような刺激に張りつめていたものが達する。
それと同時に内を満たした迸りに劉鳳はぶるりと身体を震わせた。
 「あ……」
身体中を包む気怠さを振り払うように目をしばたたかせながら、労るように頬を撫でてくる男に笑いかける。
 「大丈夫だったか?」
 「ん…、平気、だ。」
繋がっていた身体を離され、受け入れていた場所から零れる迸りに小さく吐息を漏らしながら、抱き込んでくる腕にすり寄った。
 「…暖かい・な……」
 「そっか? …―――って、劉鳳?」
返事をしない劉鳳をいぶかしんでその顔を覗き込めば、普段より赤く色づいている唇からは規則正しい寝息が漏れていた。
 「…ま、無理させちまったしな。」
できれば、もう少し会話を楽しみたかったが、病み上がりでこれだけのことをしたのだからそれは無茶な相談というものだろう。
 「…………」
それに―――。
 「アンタは、オレの側にいるんだし。」

それで。
それだけで。
この心は満たされる。
―――愛すべきあなたに満たされる。





ロストグラウンドの大地を渡る風が髪を浚う。
暖かな日差しの中、風に混じって届く街や村からの歌に耳を傾けるのが、彼の一番のお気に入りだった。
人のざわめきと物音。
笑い声。
それら全ては一体となって、生活の歌として暖かな思いとともに彼へと届く。

 「…よォ、寝てんのか?」

降り注ぐ日差しを遮るようにして現れた男に向かって閉じていた瞳を開ける。単に目を閉じていただけなので、そこには眠りの余韻など微塵もなかった。
 「いや、起きている。」
 「そっか。…買い出し終わったから戻ろうぜ。」
自然と伸ばされた男の手を掴めば、力強い腕で引き起こされる。
成長の過渡期を過ぎた身体はがっしりとした男のものになり、出会った当初の少年っぽさはもうない。今では、身長、体格など、全てが逆転してしまっているほどだ。
 「ちゃんと上着を着てろよ?」
ジープの助手席に乗りこめば、言葉とともに脱いでいた上着が膝に投げられる。意外と面倒見がいいことは知っていたが、あの日以来、過保護にもなった。
 「分かっている。…お前は過保護になったな。」
 「アンタが心配ばかりさせるからだ。」
ハンドルにかけていた手を伸ばして隣の座席に座る彼の髪を梳く。特に手入れはしていない筈の髪はそれでも綺麗で。しっとりとした手触りを持っていた。
 「それでも、俺はこの生き方を変えられない。」
 「そりゃあ、分かってるよ。…オレはアンタに生き方を変えろなんて望んじゃいない。ただ、オレを呼んで欲しいだけだ。」
側にいたい。
触れあえる距離にいたい。
もしも離れてしまったら、…名前を呼んで。
 「ああ。いつでも、どこにいても呼んでやる。もう、…恐れる必要はないのだから。」
その言葉に男は嬉しそうに笑うと、しなやかな髪を梳いていた手をそっと首の後ろに廻して引き寄せる。
 「ちゃんと呼べよ? アンタの願いなら何でも叶えてやるから。」
その言葉と同時に寄せられる唇にゆっくりと瞼を閉じた。
 「ん……」
温もりを分け与えるだけの口づけ。
離れていく暖かさに目を開けば、包み込むような笑顔を浮かべた男がいた。
 「……行こうぜ。」
 「ああ。」
失ったもの。
奪われたもの。
失いかけたもの。
 「あ。上着、ちゃんと着ろって。」
 「……やっぱりお前は過保護になった。」
けれど、確かにこの手へと掴んだものも…あった。



帰るところと。
そこにいる君と。
二人だけの時間。
永遠なんて望まない。
ずっとなんていらない。

だから、いつか終わる日まで。
そして、終わる日には、君の名を呼んで―――
end